1998年1月霧影村への旅


スキーもしないのに、冬場に山の村へ出掛けてみようと思ったのは、二ヶ月前に父が他界し、子供の頃秋田で暮らしていた頃の思い出とともに雪景色を思い出したからだった。

霧影駅を降りて山の方へ向かうバスを探したが、どのバスの路線も、雪のために途中までの折り返し運転をしていた。
ただ雪景色を見たいだけだったので、運転手さんに聞いて山の方に向かうバスのひとつに乗り、折り返し地点で降り、足跡のついていない雪の道を少し歩いてみた。
バスの運転手さんに、「次のバスは二時間後で、それが今日の最終だからね。今日は雪になりそうだから、必ずそのバスに乗るんだよ。」と言われたのに、新雪の高原が目に入った途端、父の思い出がどんどん浮かんできて何が何だかわからなくなってしった。ふと気付くと道に迷っていた。少し前から降り出した雪は少しずつ強くなっているようだった。

何時間歩いたのか、疲れ果てて「もうだめだ」と思ったとき、かすかにピアノの音が聞こえてきた。その音がどこから流れてくるのか、雪がしんしんとつ積もるかすかな音にかき消されて、なかなかわからなかった。
やっとその音のする方向を見つけると、そこには暖かな明かりのともるレストランが…!?
『こんな人里離れたところにレストラン…?』
幻覚に違いない、私はもうだめなんだ、そう思いながらも何とかその明かりに辿り着くと、白樺を削った看板に「リム亭」の文字があった。

そこは、確かにレストランだった。

凍える手で扉を開けると、ピアノを弾いていた女性が振り返った。
はじめは幽霊かと思った。色白の横顔が透けているように見えたからだ。
すぐに奥からリム亭の店主が顔を出し、「いらっしゃいませ。外寒かったでしょ?さあ、暖炉に近い席へおかけ下さい。」と声を掛けてくれた。
その言葉に促されるように、ピアノを弾いていた女性が無言で奥へ引っ込む。
『なんだろう?ピアノを中断されたことが気に入らないのかな…?』
そう思っていると、奥からいい香りのする洗い立てのタオルを持ってきてくれた。
『なんだ、いい人なんだ…』

優しそうな御主人が「こんな吹雪ではバスも来ないだろうな…、吹雪が弱くなったら車で送ってあげますよ」と言って温かいココアを出してくれた。
その温かいココアに心が溶けた私は、父の思い出話やここに来たいきさつなどを、自然に語りだしていた。奥さんのピアノの美しい音色を聞きながら。

どれくらい時間が過ぎただろうか。
「そろそろ、駅まで送りましょうか?雪も弱くなってきたようだし。」御主人が言うと、奥さんがそっとピアノを離れ、いったん奥に入り、キーホルダーを持って出てきた。
『いい御夫婦だな…』

雪の道を4WDの車が慎重に走っていく。
「暖かくなったら、また来て下さいね。目印はこの樹齢何百年という杉の木です。
このバス停を降りて進行方向へ少し歩いてください。この杉の木の所で二股に別れている道を左に行くんですよ。今来た道です。」
「はい、また必ず来ます」
カーステレオからは、さっき奥さんが弾いていた曲と同じピアノの曲が流れていた。
『なんというタイトルだったっけ…。』
しばらくすると、かすんだ道の向こうに、小さく「霧影駅」が見えてきた。

駅で私を下ろした御主人は、「気をつけて」とひとこと言って静かにウィンドウを閉めた。
ちょうどその時、東京方面への最終列車がホームに入って来た。
中程の車両に乗り込むと“前の電車が雪のため、二つ先の駅で止まっているので、時間調整をします。”のアナウンス。

がらんとした車両の窓側に座り、そっとシートにもたれ掛かると、何故か涙があふれてきた。
リム亭の御夫妻に逢えて、父が他界してからずっと凝り固まっていた心が溶けたんだ…。
彼らは多くを語らなかったし、「こうすべきだ」とはひとことも言わなかった。
温かいココアと、優しいピアノの音色。
ふと気付くと、列車はいつの間にか走り出していた。
耳の奥で響いていたピアノのメロディーがすこしづつ、列車の枕木の音に変わっていった。

私は、この霧影村へのちいさな旅をずっとずっと忘れないだろう。


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